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事業責任者のコラム(R4.6) 沖縄返還50周年

2022.06.08

子ども英会話教室ペッピーキッズクラブは今年、沖縄に新たな教室を出店しました。

これで全国全47都道府県にて教室を運営することになります。

民間教育の担い手の一人として公教育の手の届かない所や行き届かない所に手を伸ばして、

全国の方々に事業理念である真の国際人育成に繋げたいと思います。



先月5月15日は沖縄返還50周年としてTVや新聞でも取り上げられていました。

大切な節目ですので、様々なお考えやご意見があることも承知の上で敢えてこの機会に

現在に繋がる先人たちの経験やこれまでの経緯を簡単に振り返りたいと思います。



第2次世界大戦にて沖縄は多大なる戦渦に巻き込まれました。沖縄県民の一般住民の犠牲者は約9万4000名、

沖縄出身の軍人軍属の犠牲者2万8000名を合わせて県民の4人に1人が亡くなったとされています。

1946年マッカーサーは沖縄を含む南西諸島を日本から分離することを決め、

1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約にて南西諸島はアメリカの統治下に置かれました。

ソ連による原爆開発や中華人民共和国の成立など冷戦が激化するにつれて沖縄での基地建設が本格化して

大規模な土地が接収されました。住民の反発から沖縄全域に広がった大規模な抗議運動は弾圧されました。

1955年からのベトナム戦争により反戦運動と復帰運動が高まる中、1965年に当時の佐藤首相が沖縄を訪問して、

「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」と述べた後、

1969年佐藤首相とニクソン大統領は会談後に日米共同声明を発表。1972年に沖縄の施政権の返還することが約束された後、

1972年5月15日に返還されました。佐藤首相は7年8か月の在任期間の大半を沖縄返還に注いだことになります。



アメリカ統治下の沖縄では日本本土との往来に制限があり、1958年に戦後初の沖縄代表として

夏の甲子園に参加した首里高校が持ち帰った甲子園の土は没収されて海に捨てられました。

沖縄戦の影響でインフラ等の経済基盤は破壊され経済圏が分離されたことで日本本土の経済成長から分離され、

脆弱な地元資本の企業で経済活動を担うことになり今日に至っています。



50年経ち経済や政治の状況が変わった現在も、当時の人たちが思い描いて目指した50年後の姿には

まだまだ道半ばのはずです。複雑な要因が絡み合い簡単に1つの答えが見つかる訳ではありませんが、

是非1人1人が政治や経済と私たちの生活との繋がりを考える機会にしてほしいと思います。